日本橋船着き場から本所・深川へ、浅草へ。江戸の舟運(しゅううん)は、江戸の文化を辿る旅でもありました。百花咲き乱れるがごとくに両岸に現れる江戸の文化の数々。始めて江戸を訪れる旅人たちにとっては驚きであり、江戸の粋人たちにとっては、最大の娯楽であり誇りでもありました。
その様子を描いたのが「隅田川風物図巻(すみだがわふうぶつずかん)(1765年ごろ)」です。舟で繋がる、日本橋と本所・深川、浅草。そして東京スカイツリー®。江戸の文化を心に蘇らせながら、隅田川の風を感じて下さい。隅田川風物図巻が、いま、始まります。
時空を超えた船遊びの旅は、日本橋から始まります。江戸時代は、地方に向かう五街道の起点が日本橋でした。川沿いに魚河岸(うおがし)があり、橋に続く商店街があり芝居小屋、吉原と並んで、一日千両もの大金が落ちる場所としても知られていました。1802年ごろの日本橋を描いた絵巻物『熈代勝覧』(きだいしょうらん)には、お店が隈なく立ち並ぶ江戸一の商店街の活気が描かれています。
現在の日本橋は、1911年に架けられたもので架橋100年。近くには、「三越」や三井本館などの歴史建造物がある一方、新しい商業施設が立ち並ぶ、活気ある商業ゾーンになっています。
日本橋を出発すると、すぐに江戸橋が見えてきます。このあたりから隅田川へ合流するまでの両岸には、江戸で一番河岸の多い場所として知られていました。河岸とは、船から荷揚げする場所のことを意味します。米河岸、塩河岸、鰹(かつお)河岸、竹河岸など水揚げされる品名の河岸や、行徳(ぎょうとく)河岸、木更津(きさらず)河岸など行き先の地名の河岸など、様々な河岸があり、蔵が立ち並ぶこの一帯はまさに「江戸の経済センター」でした。
そういえば、日本橋には、鰹節(かつおぶし)で有名な「にんべん」や「山本海苔店」「山本山」など江戸から続く老舗(しにせ)が数多くありますが、江戸時代はこれらの河岸から荷揚げをしていたのでしょう。
江戸橋の先には、小さな船着き場があり、両岸から日本橋川を横断する舟が見えます。これが「鎧(よろい)の渡し」です。このころはまだ橋がなく、舟で川を渡っていました。この渡しの近くには、大名屋敷が立ち並んでいましたが、渡しの両岸には「鎧河岸」「兜(かぶと)河岸」があり、物流や商業の拠点でもありました。明治時代に入ると、「兜河岸」側には、渋沢栄一を中心に第一国立銀行本店や東京証券取引所の前身である東京株式取引所が設立され、今日の金融街への基盤がつくられました。1872年に始めて鎧橋が架けられ、1915年~1946年までは市電も走っていました。
日本橋川が隅田川に合流する手前に、2つの橋が見えてきます。上流側が「湊橋(みなとばし)」で、「江戸湊(えどみなと)」の出入口にあたるためこの名になったそうです。この橋の上流北側には「行徳河岸」と呼ばれる河岸があり、上総との間で船の往来が盛んに行われていました。また、下流側の「豊海(とよみ)橋」辺りは諸国からの廻船(かいせん)の酒を陸揚げする「新堀(しんぼり)河岸」と呼ばれ、白壁の酒蔵が並んでいました。
隅田川風物図巻でも両岸に倉が建ち並んでいるようすが確認できます。
今でも、キリンビールをはじめ醸造(じょうぞう)メーカーの本社がいくつかあります。ちなみに、豊海橋の近くにある新川大神宮は、第二次世界大戦で罹災(りさい)後、1952年に全国の酒問屋から協賛を得て再建された酒の神様です。
隅田川に出ると、「永代(えいたい)橋」が見えてきます。この橋は、1698年、徳川幕府の命によって日本橋川と隅田川の合流地点の上流側に架けられました。図巻の絵でも、橋の上で海側の景色を眺めている人がわかりますが、江戸時代は眺望(ちょうぼう)、納涼の名所、諸国廻船発着の地として知られていました。
1698年将軍綱吉の50歳を記念し、治世が永代続くようにと命名されて架けられたといいます。この橋が完成したことにより、富岡八幡宮への道のりが楽になり、深川一帯の発展にも繋がりました。 現在の永代橋は、2007年には国の重要文化財に指定されています。
永代橋を過ぎ、新大橋までの間の東岸一帯は、時代劇などで知られる「深川」です。この場所を開拓していた深川八郎右衛門の名に由来する深川は、将軍家光の時代から富岡八幡宮の門前町として発達。また、深川は川や堀が多く、明暦の大火ののちに木場(きば)が置かれ、材木商が多く、商業や舟運物流の拠点でもありました。
隅田川風物図巻でも、永代橋から上流の方へ、油堀、仙台堀、小名木(おなぎ)川と続き、それぞれ隅田川との合流地点に小さな橋が架けられているのがわかります。
現在の深川には八幡宮をはじめ、深川七福神や深川不動尊など、江戸の文化を留める場所が遺され、毎月1日、15日、28日に行われる縁日は、深川名物になっています。
深川を右手に見ながら舟を進めると、「新大橋」が見えてきます。最初の架橋は、1693年。隅田川に3番目に架けられた橋です。2番目に架橋された両国橋が、「大橋」と呼ばれていたため「新大橋」と称されました。歌川広重の晩年の名作『名所江戸百景』に、あのゴッホが模写したことでも有名な、新大橋を描いた『大はしあたけの夕立』という作品があります。あたけとは、東岸にあった幕府の御舟蔵(おふなくら)に係留されていた巨大御用船「安宅丸(あたけまる)」にちなんだ、その近辺の俗称です。隅田川風物図巻を見ると、新大橋の上流側に蔵が立ち並び、それが全て水際ギリギリに建てられていて、これらが舟の格納庫であることがわかります。
深川辺りを過ぎると、急に舟の数が増えてきます。中洲(なかす)・三叉(さんさ)を過ぎれば江戸の夏の一番の繁華街、両国広小路です。明暦の大火で多数の犠牲者がでたことから、防災上の必要性と、江戸市街の拡張を目的として1662年に架けられました。東西の橋詰(はしづめ)には火よけ地「広小路」が設けられ見せ物小屋や様々な商店、飲食店で賑わいました。桟敷席で夕涼みをする人々も見えます。
将軍吉宗の頃、全国的な凶作と疫病の大流行でたくさんの死者がでたために、死者の霊を弔い、悪病を追い払うために、両国橋あたりで花火を打ち上げたそうです。これが今日の隅田川の花火の始まりです。
現在の両国橋は、関東大震災の復興事業として、1932年に架けられました。
「両国橋」のすぐ近くで、神田川が隅田川に合流するところにあったのが「柳(やなぎ)橋」です。遊郭(ゆうかく)で有名な吉原に通う「猪牙舟(ちょきふね)」など、様々な舟遊びの場となり、周辺には船宿や料理屋が立ち並び、江戸を代表する花街(はなまち)でした。柳橋芸者は遊女(ゆうじょ)と違い唄や踊りで立つことを誇りとし、プライドが高かったと言われています。
橋名は諸説ありますが、北詰に柳の木が一本あったことから「柳橋」と呼ばれていたそうです。
現在では、柳橋のたもとに老舗料亭「亀清楼(かめせいろう)」があるだけですが、神田川には、屋形船、船宿が立ち並び当時の面影を残しています。
隅田川をさらに遡ると川沿いに蔵が立ち並ぶ一角が見えてきます。江戸幕府の御米蔵(おこめぐら)です。御米蔵の西側にある町は「蔵前」と呼ばれるようになり、米問屋や札差(ふださし)が店を並べていました。「札差」とは、武士に代わって米の受け取りや運搬・売却を代行する業者のこと。札差は、運搬や売却の代行に加えて、大名や旗本・御家人に金貸しも行い莫大な利益を得ていたそうです。
この蔵前や両国で店を構える蔵前商人たちが、稼いだお金を落とす場所が柳橋や吉原でした。それが江戸の文化の形成に大きく貢献することになります。
ところで、1954年~1984年まで蔵前橋の東詰に蔵前国技館がありました。蔵前橋の欄干(らんかん)に力士のレリーフが施されているのはこのためです。
この隅田川風物図巻には吾妻(あずま)橋が記載されていません。それはこの図巻が描かれたのが1760年代の中ごろ(推定)で、吾妻橋の創架が1774年のことだからです。
それまでは隅田川には千住大橋、両国橋、永代橋、新大橋の4橋しかなく、現在の吾妻橋周辺では渡し舟(竹町(たけちょう)の渡し)が両岸を繋いでいました。本所の宅地化が進んだのは、1657年の明暦の大火より3年後の事です。
1660年、徳山五兵衛重政・山崎四郎左衛門重政両名が「本所宅地并に溝渠の奉行」(本所奉行)に任ぜられたのが始まりとされています。
現在では、このエリアのランドマークとなったアサヒビールの建物とオブジェで知られ、その向こうには東京スカイツリーを間近に望むことができます。
浅草と徳川将軍家の蜜月時代は家康、秀忠の時代までで、家光、家綱、綱吉の時代から徳川家は浅草を離れて行きます。こうした中、浅草寺は1719年に10万人講を開き、大成功を収め、庶民の為のお寺に変化していきます。大黒堂、えびす堂、地蔵堂、薬師堂と、浅草寺に行けば、何でも願いを聞いてくれる、まるで万能薬のようになりました。全国規模で浅草を知らしめたのは、天保の改革です。
幕府は税収を増やすために庶民の贅沢をすべて取り上げようとしますが、遠山の金さんは芝居小屋だけを残すことにし歌舞伎の三座が猿若(さるわか)町に集められます(猿若三座)。女性は歌舞伎に殺到し、男性は吉原に行きます。観音様にお参りをしてから遊びに行き、遊びに行った帰りにお参りをする。浅草は庶民の町として賑わっていきます。現在、江戸情緒あふれる浅草を訪れる人は約2000万人。東京スカイツリーが加わり新旧の文化を楽しむ一大観光ゾーンとなることでしょう。
浅草を過ぎると間もなく鳥居が見えてきます。これが真乳山(まっちやま)聖天(本龍院)で対岸が向島です。この当時(1760年代中ば)は、本当にあまり開発が進んでいなかったようですが、徳川将軍家の休息所であった隅田川御殿があり、隅田川の自然堤防沿いに桜の木が植えられたのは1661年~1673年の寛文年間。その後、将軍吉宗によって植桜が勧められ、堤は多くの江戸市民でにぎわう花見の名所、憩いの場所へとなっていきました。
道幅は広く、道の両側には、見事な桜の並木が続き、春は花見、正月は七福神めぐりの人々で、特ににぎわいました。
現在、「墨堤植桜之碑(ぼくていしょくおうのひ)」が残されています。
Scroll Y=0