《大江戸名所めぐり 浮世絵編》歌川広重「名所江戸百景」めぐり

大江戸名所めぐりTOPへ

人形町・浜町

第4景「永代橋佃しま」(春)
隅田川にかかる永代橋から佃島を臨んだ夜景が描かれています。永代橋は日本橋の箱崎と深川の佐賀町を結んでいました。絵の中に火の玉ように見えるものは、白魚漁の篝火とのこと。漁のための大型船も描かれています。当時は佃島の白魚が最も美味しいとされ、幕府に納入していました。
当時の永代橋は現在とは違い、日本橋側の北方面にかかっていました。
第6景「馬喰町初音の馬場」(春)
初音の馬場は江戸最古の馬場といわれ、その名称は馬場が馬喰町初音ノ森と呼ばれる場所にあったことに由来しています。慶長5年(1600年)には、関ヶ原の戦いに向けて馬揃え(馬を揃えての戦勝祈願)を行ったとされています。現在の馬喰町一丁目に、初音の馬場があり、その一角の火の見櫓が描かれています。現在の馬喰町1丁目交差点付近(右画像)には大小さまざまな問屋がひしめきあっています。
第7景「大てんま町木綿店」(春)
人口が増加し大都市になった江戸では、絹よりも安価な木綿の需要が増え、寛永年間(1624~1644)にかけて、江戸の問屋街・大伝馬町一丁目あたりには木綿を扱う問屋が軒を並べるようになったと言われています。絵の中では、堂々たる構えの「たばたや」「ますや」などが描かれています。屋根の上には防火用の天水桶が設けられていました。
また、この近所に日本橋七福神でも知られる寶田恵比寿神社(右画像)があり、今と変わらず、商人たちから商売繁盛の神様として信仰されていたといいます。
第55景「佃しま住吉の祭」(夏)
かつて佃島の住吉神社の祭礼は毎年6月28日から29日にかけて行われました。広重は神社の前に建てられた「住吉大明神」と書かれた大幟を描いています。佃島は江戸湊の入口に位置し、住吉神社は漁師をはじめ、多くの人々から海上の守護神として信仰を集めました。現在も氏神として信仰され、毎年8月6日、7日に祭礼が行われています。現在は神社から全く川が見えないため、場所を移動して撮影しました。右の画像は住吉神社。
第58景「大はしあたけの夕立」(夏)
最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1693)。当時「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。ゴッホにも強い影響を与えたこの絵は、日本橋側から対岸を望んだもので、急に降りだした夕立に急ぐ人々を描いています。「あたけ」というのは、新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場に係留されていた御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近がそう呼ばれていたそうです。右画像は新大橋の東岸(江東区側)にある、旧新大橋の橋柱。
第74景「大伝馬町ごふく店」(秋)
この絵は通旅籠町(旧大伝馬町3丁目)にあった大丸屋呉服店付近を、行進する上棟式帰りの一行を描いています。京都伏見に本拠を置いていた下村大丸屋は、元文3年(1738)に、この地に出店しました。すでに出店していた越後屋を意識して「げんきんかけ値なし 呉服太物類 下むら大丸屋」の看板を掲げて、新形流行縞の太物を売って成功したといわれています。
第77景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」(秋)
築地一帯はかつて鉄砲洲といい、京橋川が隅田川に流れ出る河口から南方へかけて細長い洲ができていて、それが鉄砲の形をしていたとか、昔は大砲の試射場であったからとか、その由来には諸説があります。鉄砲洲から芝浦までの海を江戸湊と呼ばれていました。この絵の中では、船の帆柱ごしに赤い塀に囲まれた湊神社(鉄砲洲稲荷神社)が見えます。神社は明治元年(1868)に湊一丁目に移転し、現在その跡地はビルになっています。
第78景「鉄砲洲築地門跡」(秋)
築地門跡(もんぜき)とは、築地本願寺のことをいいます。もともと京都西本願寺の別院として浅草にありましたが、明暦の大火(1657年)で消失、その後、現在の地に移ることになりました。佃島の門徒が中心となって、この地の一画に埋め立て工事を行い、西本願寺を再建したそうです。広重の絵では、明石町の民家が描かれ、その向こうにある西本願寺の屋根が大きく描かれています。

歌川広重『名所江戸百景』MAP 人形町・浜町編

歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」が描かれた場所(推定地点)を地図上に示しました。ぜひ実際に回ってみてください。