《大江戸名所めぐり》歴史名所スポット

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墨田区

回向院
回向院は、明暦三年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院で、無縁寺ともいいます。この年、江戸で「明暦の大火」があり、10万人以上の人々が犠牲になりました。当時の将軍・家綱は、この火災で亡くなった多くの無縁の人々を手厚く葬るため、現在の地に「万人塚」という墳墓を設け、大法要を執り行いました。このとき建てられた御堂が、回向院の始まりです。その後、ここでは、牢死者・刑死者・安政の大地震の死者なども弔われています。
勧進相撲発祥の地(回向院)
江戸時代の相撲は、主として寺社修復の費用など、公共社会事業の資金集めの名目で、寺社の境内で開催されていました。この勧進相撲が、回向院境内で初めて行われたのは、明和五年(1768年)のことです。天保四年(1833年)からは定場所となり、勧進相撲興行の中心は回向院とされてきました。明治四十二年(1909年)旧両国国技館が建てられるまでの七十六年間の相撲を指して、「回向院相撲」と呼ぶこともあります。昭和十一年(1936年)、大日本相撲協会は物故力士や年寄の霊を祀る「力塚」を、境内に建立しました。
鼠小僧次郎吉の墓(回向院)
金持ちから金品を盗み、盗んだ金を貧乏人たちにバラまいた「義賊」として有名な、江戸後期の盗賊です。窃取した金高は12,000両前後、侵入した屋敷は大名旗本の屋敷150箇所と言われています。天保三年(1832年)、松平宮内少輔の屋敷に忍び込んだ所を、市中引廻しの上鈴ヶ森刑場で打首獄門になりました。回向院のこの墓は、伊勢屋四郎兵衛という商人が施主となって、建ててあげたものだそうです。
おいてけ堀付近
「おいてけ堀」は、「本所七不思議」の一つとして、落語などで有名です。「置き去りにする」の意の「置いてきぼりをくう」の語源となった話です。「男が錦糸堀で魚を釣っていると、どうしたわけか面白いほどよく釣れます。すぐに魚籠もいっぱいになったので帰ろうとすると、堀の中から「おいてけ~、おいてけ~」と薄気味悪い声がしたのでびっくり。一目散に家に逃げ帰ると、いつの間にか魚籠はからっぽになっている」…という話です。
(鬼平)長谷川平蔵の役宅跡
池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』、およびそれを原作としたテレビドラマの主人公のモデル、長谷川平蔵(本名・宣以-のぶため-)は、江戸時代の旗本。重罪犯を取り締まる役職である「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」の長である「火付盗賊改役」を長年務め、数々の成果をあげました。また、松平定信の「寛政の改革」で、人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などに尽力しました。犯罪者に職業訓練を受けさせ、社会復帰をさせるという、日本刑法史上独自の制度を創始した人物です。(ちなみに、この役宅は約40年後、鬼平の孫の代に屋敷替えとなり、遠山の金さんこと、遠山金四郎の下屋敷になりました。)
勝海舟生誕の地碑
海舟は、幕末の幕臣。本所亀沢町の父親・小吉の実家である男谷家で生まれ、7歳までここで育ちました。万延元年(1860年)、軍艦・威臨丸の艦長として、日米修好通商条約批准のため日本人初の太平洋横断を成し遂げ、アメリカに渡りました。慶応4年(1868年)、幕府倒壊後の処理を一身に背負い、官軍の西郷隆盛と高輪薩摩邸において会見。官軍の江戸進軍を中止させ、江戸城の無血開城に成功、江戸の街を戦火から救った人物です。
葛飾北斎生誕の地
日本が生んだ世界的画家、葛飾北斎は、宝暦十年(1760年)、本所南割り下水に生まれたと言われています(当時、この水路の両岸に人々が生活していました)。この水路跡は、北斎生誕の地にちなみ、現在は「北斎通り」と名付けられています。北斎は、生涯に93回も転居したそうです。代表作に『富嶽三十六景』や『北斎漫画』などがあり、彼の風景画や美人画は、ヨーロッパのゴッホや印象派の画家たち等に大きな影響を与えました。
長命寺(ちょうめいじ)句碑群
長命寺は当初「宝寿山常泉寺」と号していたといいます。寛永年間に、三代将軍・家光が鷹狩りを行った際、急に腹痛を催しましたが、当時の住職が持ってきた庭の井戸の水で薬を服用したところ、たちまち痛みが治まったので、「長命寺」の寺号を与えたと伝えられています。境内には、この由来を刻んだ「長命水碑」のほか、「芭蕉雪見の石句碑」など、52基の歌碑、句碑、由来碑、供養碑などがあります。本堂に安置する弁財天は、隅田川七福神の一つに数えられています。
太田道灌供養塔(法恩寺)
法恩寺は、太田道灌が江戸築城のとき江戸平河に創建した寺院で、当時は本住院と号しましたが、大永四年(1524年)に「平河山法恩寺」と寺号を改めました。その後、神田柳原、谷中清水町と移転した後、元禄八年(1695年)、現在地に寺地が定まりました。現在地の「太平(町)」の地名は、太田道灌の「太」と、山号平河山の「平」の二文字をとり命名されたものと言われています。供養塔は、五輪塔形式で、総高201.5 cm あります。
本所吉良邸跡
元禄十五年(1702年)12月14日、「忠臣蔵」で知られる赤穂四十七士が討入った場所です。討入り後、吉良邸上屋敷は没収され、その後、町家が築かれて本所松坂町となりました。昭和九年(1934年)、地元有志が発起人になって、邸内の「吉良の首洗い井戸」を中心に土地を購入し、東京市に寄付し貴重な旧跡が維持され、その後墨田区に移管されました。現在は、墨田区の「本所松坂町公園」として保存されています。その規模は、広大だった吉良家上屋敷の約86分の1のサイズにすぎません。
三囲神社(みめぐりじんじゃ)句碑群
「隅田川七福神」のうち、恵比寿神・大国天の二神が祀られている神社です。もともとは、現在地より北方に田中稲荷として創建されたと伝えられていますが、文和年間(1353~1355年)、近江三井寺の僧源慶が東国遍歴の際に、社を改築したといいます。その際、土の中から壷が出てきたので中を開けてみると、狐にまたがった老翁の神像が入っていました。その狐は、像の周りを三度回って姿を消したので、三囲神社となったといわれています。三井家(三越などの創業家)の守護神としても崇敬を集めています。境内には、宝井其角の「雨乞いの句碑」など、著名な句碑、歌碑が56基もあり、区内最多です。
向島百花園句碑群
向島百花園は、文化二年(1805年)頃、佐原鞠塢(さわら・きくう)という町人が、元旗本、多賀氏の屋敷跡約3000坪を購入し、開いたのが始まりとされています。開園当初は360本の梅が主体でしたが、その後、『詩経』『万葉集』などに詠まれている植物を集め、四季を通じて花が咲くようになりました。往時は、江戸中にその名が知れ渡り、庶民の行楽地として賑わいました。十二代将軍・家慶が梅見に訪れたほか、明治になっても皇室関係者や多くの著名人が来園しました。園内には、芭蕉の句碑をはじめ二十数基の石碑があります。ちなみに、「隅田川七福神」は、ここに集まっていた文人墨客たちが、隅田川の東岸にも七福神がそろわないものかと考え、縁故をもつ神社仏閣を探し出したのが始まりと言われています。

歴史名所MAP 墨田区編

上記で紹介した墨田区の歴史名所を地図上に示しました。ぜひ実際に回ってみてください。